国重要文化財

  白山神社本殿及び附属棟札

 

  指定  昭和27年3月27日

  所在地 照岡

  所有者 白山神社 名立区長

 

 

 

 

 名立山中腹のごく狭い社地に覆屋があり、その中に白山神社本殿が安置されている

 本殿は飯水岳北地域でもっとも古い建造物。台座の上に建っており一間社、隅木入、春日造である。

 正面60.7cm、奥行45cmの建築物で向拝丸桁の先端には古拙な鯱(シャチ)が彫刻されている。

 この鯱鼻は、全国でも10例ほどの珍しいものという。

 創建年代を示す棟札等には

 「白山大権現御廟奉建立時応永丗二乙巳八月十二日 総領式部大夫入道沙弥道■ 願主四郎左衛門丞藤原経吉」と墨書されている。また本殿向拝化粧裏板に「白山妙理 滋野之宗厚 生年四二才応永丗二年八月」と記され、本殿登裏甲板に「さいしきの僧しなの国み■■こをり、かみさかい入道沙弥■■(花押)」と墨書きされている。

 以上のことから、この白山神社本殿の願主は藤原経吉であり、滋野宗厚・かみさかい入道などの肝煎で応永32年(1425)に創建されたといえよう。

 建物全体として若干の痛みはあっても、大体において古代の相をそのままに存続し、その手法の秀抜なること、また地方色を存しながらも中央文化の面影を濃厚に伝えているといわれている。

 

 

 

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 国重要文化財

  健御名方富命彦神別神社末社若宮八幡神社本殿

 

  指定  昭和27年7月19日

  所在地 豊田

  所有者 健御名方富命彦神別神社

 

 

 

 本殿は桁行(正面)186cm、梁行(側面)141cm、向拝の出122cm、併せて奥行261cmの清楚な素木造り、一間社の流れ造りの純和様建築である。

 向拝の柱や舟肘木の面取りの程度、また細長い舟肘木につけられた優美な曲線、幣軸の断面に見られる形式、その他虹梁、垂木、破風、懸魚、桁隠等の形式は、よく室町時代の特徴を示しすっきりした建築的な趣きに統一される。

 全体の清楚な姿と、細部に至るまでよく保存されていることは、北信地方の貴重な遺構として高く評価されるところである。

 伝説や口伝もあるが、昭和48・49年の解体再建工事で、過去に解体の跡がなかったことが確認され、現在の定説では、文明元年から8年頃尾崎政重に若宮八幡の本社の左末社として建立されたと考えられている。

 当時政重は当社の北300メートルの場所に万用山東源寺を建て隠居し、その東源寺の北側に正八幡宮(明治初年廃止)を、南側に若宮八幡宮を建立したことも考えられる。

 

 

 

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 国重要文化財

  小菅神社奥社本殿及び附属宮殿2基

 

  指定  昭和39年5月26日

  所在地 瑞穂

  所有者 小菅神社

 

               

 

 

  小菅山(1,017メートル)山腹、標高約840メートルの岩陰に建てられた社でその草創は、天武天皇の白鳳8年(680年)修験者の開祖役小角(えんのおずぬ)が岩窟内に八所権現の宮殿を建てたのが始まりと伝えられている。

 現在の建物は、天文年中に造立されたもので、正面四間(約7.3メートル)、側面四間(約7.3メートル)、入母屋で南面して立ち背面は造りかけたいわゆる懸造り。妻は正面、屋根は現在銅板平葺になっているが、もとは茅葺きであった。基礎自然石を用い、総円柱で床下に足固貫を桁行(下)梁行(上)に通し、内法貫、頭貫を入れ、縁長押、内法長押を打つ。

 内陣にある宮殿3基のうち中央のものは比較的新しく、他の2基は永正5年(1508)の造立で、本殿ともに指定されている。

 修験道に属する古い社殿の遺構はいたって類例が少なく貴重であるばかりか、急崖を登山してたどりついた奥社本殿の景観は、まさに神々の降臨する場所であると実感できる。

 【補足】

 発見墨書等

 (内陣柱墨書)

 宝徳之絵延(これより以下は削られる)

 此宝徳之絵延6年マデ(これより以下は削られる)

 (小菅社記)

 社頭内二記

 奥院三社頭造立永正五年九月成就■

        別当 大聖院澄吽

  世話方 井ノ坊住弘澄

 奥院

 天正十九年四月再興修復成就■

       別当并末十八坊 

 大工棟梁越中国新川郡

         小野源之丞

 右大工一首ノ歌写シアリ

 古歌

  うくいすの声なかりせは

   雪消ぬ山さといかて

    春をしらまし

     小野政高敬白

 

 

 

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 天然記念物

  黒岩山(ギフチョウ、ヒメギフチョウ混棲地)

 

  指定  昭和46年7月5日

  所在地 顔戸

  所有者 顔戸区ほか

 

 

      

 

 

 黒岩山は長野県と新潟県の県境に連なる関田山脈の中央に位置している。

 日本特産種であり、西日本に生息するギフチョウと東日本に生息するヒメギフチョウは分布境界線がはっきりしていて、一般に棲み分けがなされているが黒岩山は数少ない混棲地として知られる。

 ギフチョウとヒメギフチョウは初めは同種として取り扱われた。ギフチョウが日本で最初に発見されたのは明治16年(1883)で、ヒメギフチョウという名前が発表されたのは大正6年(1917)であるから、30年以上も同じ種類として扱われていた。

 頂上近くにはモリアオガエルも生息し、ミズバショウやユキツバキも見られる。

 

 

 

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 国重要無形民俗文化財

  小菅の柱松行事

 

  指定  昭和52年11月17日

  所在地 小菅区

  所有者 小菅柱松神事保存会

 

 

 

 柱松行事(柱松柴灯神事)は、小菅では「松子」と呼んでいる。

 神事の行われるのは、講堂祭場において、3年に1回、7月15日すぎの土日、午後3時頃から5時頃までの間で行う。

 この行事の主役は、くねり山伏(松太鼓手)、山姥(仲取)、松神子、松子若衆などである。

 整列した行列が、松太鼓の合図により一進一停しながら祭場入り口に到着する。祭場には上(東)・下(西)に分けて立てられてある柱松があり、太鼓の合図で仲取につれられて松神子2人は、助手にかかえられて競争して柱松に引き上げられる。柱松の頂には数人の若者が上って待機している。引き上げられた松神子の胸につけた燧金と箱の中の燧石とすり合わせ火口に火をいれ尾花に点火する。点火と同時にすばやく松神子を下ろし柱松を倒す。早く倒したほうが勝となってその年の豊凶を占う。ちなみに上(東)が最初なら天下泰平、下(西)なら五穀豊穣となる。

 柱松とは、柴をぶどうづるで結わえ、高さ4メートル周囲2.4メートルの上下2基で、上(東)のものは9カ所、下(西)のものは7カ所結わえる。各上部には杉の生皮をたれ、その上に松榊、尾花が立てられる。上(東)の飾りは赤、下(西)は白と色分けされている。

 

 

 

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 国重要文化的景観

  小菅の里及び小菅山の文化的景観

 

  指定  平成27年1月26日

  所在地 小菅区、神戸区の一部、関沢区の一部、針田区の一部(389.7ヘクタール)

 

 

 

 

 小菅は長野県北部の飯山盆地東縁に営まれる集落で、小菅山山麓の傾斜面上に広がる。

 集落を囲む山々ではブナ群落・ナラ群落等が卓越しており、それらはかつて薪墨材投に利用されたほか、集落内でもカツラ・ケヤキなどの樹木が植えられており、小菅神社の例大祭である「小菅の柱松行事」に用いられている。

 小菅山は7世紀前半に遡る修験の山であり、戦国時代には北信から上越に及ぶ信仰圏を誇ったとされる。小菅神社の直線的な参道の両側に方形の区画を持つ坊院群が密集する古地図が伝わっており、現在も当地で算出する安山岩を用いた石積み等で区画された地割りが、居住地および耕作地として継承されている。

 

 

 

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 国登録有形文化財

  日本聖公会中部教区飯山復活教会

 

  指定  平成29年10月27日

  所在地 飯山

  所有者 日本聖公会中部教区

 

 

 

 

 一般民家を買収して古くから運営を続けていた飯山復活教会は木造平屋建て、前室上部のみ2階建てで、昭和7年に建てられた、単廊式の教会堂である。

 南北方向に棟が通り、梁間3間半(約6.3メートル)、桁行7間(約12.7メートル)の規模で、木造、切妻、屋根は鉄板葺き、一部スレート葺き屋根で、妻入り、壁は大壁造りで、外壁は下見張り、内壁は白漆喰仕上げとなっており、床はいずれも畳敷きである。

 北信・東信地方で伝道や聖堂建設に尽力したカナダ人宣教師ウォーラー司祭が設計したとされ、彼の貢献を示す貴重な建物である。

 また、寺の町飯山において、キリスト教文化の伝道を語る上で必要不可欠な存在といえる。

 

 

 

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 重要美術品

  健御名方富命彦神別神社本殿及び附属鰐口  

 

  指定  昭和23年10月1日

  所在地 豊田

  所有者 健御名方富命彦神別神社

 

            

 

 

  履屋の床を浜椽風に用い、大面取の向拝社を建て、階段をつけて本屋に登るように建てられた一風変った構造である。本殿は正面196センチメートル、側面168センチメートルの一間社流れ造り、屋根は柿板葺きである。向拝柱頭の象鼻は蟻入りになっており、虹梁とは連続しない桃山時代の手法である。

 全体としては唐様、和様が複雑に取り入れられており、色彩も施されて華やいだ感じである。

 なお、この社殿は江戸時代の初期の再建であるがよく古風を残している。

 また、鰐口は直径30センチメートル、重さ9.6キログラムの鉄製で、中央に蓮華紋をあしらい、右側に「奉懸岩井備中守信能」、左側に「文禄三歳四月吉日」と陽刻されている。

 当時、岩井信能は上杉景勝の信任厚く飯山城代であったので、当社を再建した折に民生の平穏を祈って奉納したのであろう。

 

 

更新日 2020年01月23日