史跡

  恵端禅師旧跡正受庵

 

  指定  昭和35年2月11日

  所在地 飯山地区

  所有者 正受庵

 

 

 

 

 弘化4年(1847)3月の善光寺大地震により倒壊したが、同年8月に再建された。

 幕末まで飯山藩士の修行道場としても活用されていたようだが、明治に入り無檀家の事もあり、廃庵の危機を迎える。しかし山岡泥舟や高橋泥舟ら多くの文人や地元有志の人々の努力で、復興し今日まで当時の姿を伝えている。

 茶室の前に水石と栂の木があり、数多くの市指定文化財のほか、恵端の墓塔「栽松塔」、恵端が昼夜を問わず座禅したと伝えられる「座禅石」、来庵した白隠のうぬぼれの心を見抜き崖下へ蹴落としたとされる「白隠蹴落としの坂」などがある。

 

 

 

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 天然記念物

  神戸のイチョウ

 

  指定  昭和37年9月27日

  所在地 瑞穂

  所有者 神戸区長

 

 

 神戸のイチョウは、中世から小菅庄内の良蔵坊門前の木と伝えられた雄木で実はならない。現在県内では最大のものであり、全国でも上位に入る。現在も樹勢が保たれ黄葉も落葉もこの地方では最も遅いとされる。

 平成27年計測時点 胸高幹囲14.7メートル、樹高36メートル。

 

 

 

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 県宝

  桐竹鳳凰文透彫奥社脇立

 

  指定  昭和39年8月20日

  所在地 小菅文化財収蔵庫

  所有者 小菅神社

 

 

 ヒノキの厚板に「竹に鳳凰」、「桐に鳳凰」の二面があり、外形74.7センチメートル、横32センチメートル、厚さ1センチメートルの長方形で裏板がはられている。

 竹木と桐木に留まる鳳凰の半肉透かし彫りとしてあらわし、彩色が施されている。竹図の下地板には金箔を捺し、室町時代後期の工芸品としても貴重である。竹鳳凰の裏板には「天文15年8月■日」と記されている。

 

 

 

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 県宝

  板絵著色観音三十三身図

 

  指定  昭和39年8月20日

  所在地 小菅文化財収蔵庫

  所有者 小菅神社

 

  

 

 

 

 33枚あったものと思われるが現在15枚で、うち2枚は別々の絵をはぎあわせたものと思われる。平均縦60センチメートル、横26.5センチメートル、厚さ1センチメートルである。

 本図はヒノキとみられる板に胡桃下地を施し、単純ながら闊達な輪郭線で尊像を描き出し彩色してある。

 背面の墨書きで判読できるものは、「小王身 当応永十二年卯月十五日」や「比丘形 応永十二秀卯月四月十二日本栖入道■■(花押)」などがあり、室町時代初期のものと推測される。

 

 

 

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 史跡

  飯山城跡

 

  指定  昭和40年7月29日

  所在地 飯山市(田町)

  所有者 飯山市

 

 

 

 城は独立丘陵を削平として構築されている、南に本丸を置き、北に向かって二の丸・三の丸と階段状に配置した梯郭(ていかく)式と呼ばれる平山城であり、西側は帯曲輪(くるわ)・西曲輪・外曲輪に区画され、周囲に一重の濠がめぐらされている。

 この城はもと泉氏の居城であったが、上杉謙信が飯山城を本格的に城を築城し、その後、景勝・関・皆川・堀…とめまぐるしく城主が交代した。享保2年から明治維新をむかえるまでは本多氏が城主であった。

 飯山城本丸跡には本田氏の祖・広孝を祀った葵神社があり、神社の南側には田町の氏神であった通称太陽神が祀られている。

 

 

 

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 天然記念物

  小菅神社の杉並木

 

  指定  昭和49年3月22日

  所在地 飯山市瑞穂小菅

  所有者 小菅神社

 

 

 

 奥社入り口から、大きいものでは高さ400メートル、幹囲は525センチ以上ある杉もあり(高さ、幹囲ともに更新されている)、現在200本以上も維持されている。

 川中島合戦の戦火により神社仏閣は尽く消失したが、幸いに杉並木は難を免れたものが残って、その間新陳代謝を経て現在の姿で維持されてきた。

 この杉並木は昭和8年に県天然記念物に認定されたが一度解除され、昭和49年に再認定されている。

 

 

 

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 県宝

  木造伝聖徳太子立像

  

  指定  昭和54年12月17日

  所在地 飯山

  所有者 西敬寺

 

 

 

 

 本像の安置されている西敬寺寺伝によると、親鸞が越後に流罪中の承元元年(1207)の春、善光寺に参詣の折に報恩院の僧であった浄観は親鸞の弟子となった。その際、親鸞は浄観の持っていた椋の木で太子像を彫り、浄観に与えた。その後、埴科の倉科に西敬寺を建立したが、のちに火災に逢い何度か移転し、寛文12年(1672)に現在地の奈良沢に建立されたとのことである。

 材質は檜で両手首と両足以外は内刳りをしない丸彫りの一木造りである。本像は飯山市域での聖徳太子信仰を物語る貴重な作例である。

 

 

 

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 史跡

  勘介山古墳

 

  指定  平成6年2月18日

  所在地 飯山市静間勘介山

  所有者 個人等

 

 

 静間荒船集落南方に勘介山があり、この山頂に勘介山古墳がある。飯山地域で初めて発見された前方後方墳である。

 この古墳は、山頂に立地することや、狭小な前方部であることなどから、前期古墳と考えられている。従来飯山市内では前期古墳はなく、ほとんどが後期古墳であると考えられていた。そういう意味で、飯山地域にも前期古墳が存在することが確認された意義は極めて大きい。

 古墳は全長40メートル、前方部の長さ14メートル、高さ2.4メートル、くびれ部の幅11.5メートル、後方部の長さ26メートル、高さ4.2メートルである。

 

 

 

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 県宝

  太刀 銘天然子壽昌

 

  指定  平成1年8月14日

  所在地 飯山市静間

  所有者 個人蔵

 

 

 

 幕末の信州の刀工として知られる山浦真雄の「壽昌」銘の作品である。

 この刀は年紀はないが、銘文の書体や出来事等から弘化2年(1845)の頃の作と考えられている。

 槁造、身幅元より順に狭くなり優しく、鎌倉時代末期の太刀姿を偲ばせる。鍛は板目流れ、地沸つき薄く映りがでる。刃文は互いの目に丁子を配し、小沸つき鋒はのたれて浅く返る。茎は生ぶ、先栗尻鑢目筋違い、目釘孔一個、表に銘を切る。

 刃長73.6センチメートル 反2.3センチメートル 元幅2.9センチメートル 先幅1.9センチメートル

 鋒長2.7センチメートル 茎長22.3センチメートル

 

 

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 無形民俗文化財

  五束の太々神楽

 

  指定  平成10年10月26日

  所在地 健御名方富彦神別神社拝殿内

  所有者 五束太々神楽保存会

 

 

 

 起源伝来については、詳しくではないが「大宮太々御神楽例書」によると、延宝2年(1674)3月飯山城主松平忠親の仰付によって奉修されたとある。

 また同書は天保7年(1836)3月5日飯山城主本多助賢の仰付によって太々神楽を奉修したことが詳しく記録されている。

 神楽面の一つは室町末期の製作と鑑定されているので、数百年来の伝統をもつものであろう。

 太々神楽奉仕の次第は大祭、例祭、奉納者のある場合などで種目の増減はあるが、天保7年(1836)飯山藩主本多助賢の御付によって奉奏された「神楽奉修の次第」は次のとおりであった。(例書による)

 一 惣社中着座

 二 打鳴

 三 心の御柱勧鎮

 四 天神地てい招請

 五 斎場開元

 六 身曽貴祓

 七 中臣大祓

 八 弓矢加持

 九 賢木舞

 十 巫女舞

 十一 露の舞

 十二 小宗上(御宗上)

 十三 祝辞

 十四 神楽寄進帳祈念

 十五 御祓祈念

 十六 奉幣…越天楽

 十七 劔の舞 

 十八 鉾の舞

 十九 蒔銭

 二十 杓舞…是マデニテ神楽七座相スム

 二十一 小舞五番 大宝 龍伝

 二十二 鎮火

 二十三 献湯

 二十四 陽々の声

 二十五 退下

 

 

 

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 選択無形民俗文化財

  富倉の笹ずし

 

  指定  平成12年3月15日

  所在地 富倉地区

  所有者 −

 

 

 

 越後と信州を結ぶ街道の中でも、富倉街道は上杉謙信が川中島合戦に春日山城から出て信濃へ出陣する際の軍用路として、重要な街道であった。謙信が兵馬を引き連れ通過したときに、富倉の里人が笹の葉にご飯をのせ、山菜の煮付けや味噌漬けなどを添えて献上したと伝えられたことから「謙信寿司」とも呼ばれるようになった。

 笹には殺菌効果もあり、保存食、携帯食、戦時食として使われた可能性は高い

 一般の家庭では、冠婚葬祭、お祭り、お盆など郷土食のご馳走としてふるまわれている。

 

 

 

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 県宝

  絹本著色両界曼荼羅図

 

  指定  平成14年3月28日

  所在地 飯山市大字瑞穂

  所有者 菩提院

 

 

 

 

 平成13年の鑑定によれば、応永期前後(14世紀末から15世紀前半)の作と推定されており、小菅山における修験道と密教の普及を裏付ける貴重な文化財である。

 胎蔵界 中央に八葉院を設け、その周辺に十二大院が配置され、中央から周辺部へ大から小へと400余りの諸仏が儀軌にのっとって描かれている

     縦 104.5センチメートル 横 93.7センチメートル

 金剛界 画面が3列3段の9つの九会の長方形の枡形に区切られ、中央部には曼荼羅の根幹部である成身会、その下に三昧耶会、さらに右回りに微細会・供養会・四印会・一印会・理趣会・降三世会・降三世昧耶会の諸会が取りまく。

     縦 105.5センチメートル 横 92.8センチメートル

 

 

 

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 県宝

  魚形線刻画土器

 

  指定  平成27年2月19日

  所在地 飯山

  所有者 飯山市教育委員会

 

 

 

 飯山市静間に所在する山ノ神遺跡から昭和47年の発掘調査により、縄文時代晩期の遺物が多量に出土した。これらの土器片や石器に混じって魚形線刻画土器が発見されたのである。

 縄文時代において線刻された動物絵画資料は全国的にも僅少であり、魚類を描いた物件はない。このため、列島における原始絵画の歴史を知る上で貴重である。

 楕円形椀形土器の外面に魚形を描いてあり、体部は、2本の線によって約5センチメートルの長さに紡錘(ぼうすい)形、尾ひれはそれぞれの下端が外側に屈曲することによって表現されている。体部に左側に2個の「ひれ」が描かれ、頭部両側には、それぞれ2本の「ヒゲ」状が表現されている。

 一部にシュモクザメという説もあるが定かではない。

 

 

 

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 県宝

  木造馬頭観音菩薩坐像

 

  指定  平成28年3月17日

  所在地 飯山市大字小菅

  所有者 小菅神社

 


 

 

 本像は、かつて小菅権現として祀られていた馬頭観音菩薩坐像である。

 像高35.3センチメートルの桂材を用いた一木造りで内刳りを施さない。造立当初は三面三眼六臂忿怒相の通例にならったものと推察されるが、現状は虫害や朽ちによりかなり痛みが進んでいる。

 現状確認される面相部の豊かな頬張り、怒りを抑えた忿怒の表情、肉づきの豊かな体躯、浅く整えられた条帛(じょうはく)などの彫成は、平安時代後期の彫像の手法を示している。

 元隆寺の創建時にさかのぼる馬頭観音菩薩であるかどうか、それを裏付ける史料がないため断定することは困難だが、平安時代より修験道と密教によって隆盛をみた元隆寺の歴史を物語る貴重な違例といえる。

 

 

 

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 県宝

  仁王門

  

  指定  平成29年9月28日

  所在地 飯山市大字瑞穂

  所有者 小菅神社 氏子総代会

 

 

 

 天保2年(1682)の「領内寺社領並由緒差出帳」に小菅に仁王門があったと記されていることから、そのころに仁王堂(仁王門)が建立されていたと考えられる。享保3年(1746)作成の「小菅山古絵図並當時絵図」には、参内・集落の入り口に仁王門が描かれている。これは現在地とほぼ変わらない位置である。

 筑後300年を経た建造物であるとみられ、内部には一対の金剛力士像が安置されていることからも歴史的価値は高い。

 入り母屋造り、鉄板葺、桁行3間、梁行2間の元禄期に製作されたものと考えられる。

 

 

 

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 県宝

  講堂

  指定  平成29年9月28日

  所在地 飯山市大字瑞穂

  所有者 小菅区長

 

 

 

  永禄9年(1566)の「信濃高井郡小菅山元隆寺之図」に講堂が描かれていて、講堂の近くには鐘楼や金堂があった。いったんは甲斐武田氏の兵火で失ったが、天和2年(1682)の「領内寺社領並由緒差出帳」には、講堂の存在が記されている。元禄10年(1697)に松平忠喬が講堂を修復したという記録から、松平時代に再建されたことを伺わせるが、現存する寄棟造りの講堂は寛保元年(1741)に再建されたものといわれる。

 寄棟造、鉄板茸、桁行8間、梁行7間で内陣には享保17年(1732)に作られた阿弥陀三尊仏が安置されている。

 

 

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 県宝

  護摩堂

 

  指定  平成29年9月28日

  所在地 飯山市大字瑞穂

  所有者 小菅神社 氏子総代会

 

 

 

 一説に寛延3年(1750)の建立という。ただし正徳5年(1715)隠居した別当職5代恵昭が護摩堂を建立したという記録があることから、建築原型の年代はさらに遡ると推定される。

 延享3年(1746)作成の「小菅山古絵図並當時絵図」に護摩堂が描かれている。こうしたことから講堂は、恵昭の代(1690〜1715)に建立されたと考察できる。

 向拝は唐破風造りで、内陣は1段高く、中央に祭壇が設けられ護摩祈祷の建築様式をもつ。

 

更新日 2020年02月07日