無形民族文化財

  さつまおどり

 

  指定  昭和48年6月25日

  所在地 常盤

  所有者 小沼さつまおどり保存会

 

 

 

 現在、小沼集落に伝わっている「さつまおどり」は、その由来について、いろいろな言い伝えがあるが、文献等はなくはっきりしたことは不明である。

 現在は小沼神社の祭礼の夜に奉納舞として踊られている。拝殿の前に高櫓が組まれ、櫓は紫の幔幕で飾られ、しめ縄がはられている。紅白の祭り提灯が飾られる櫓の上には、三味線・笛・太鼓・胡弓の弾き手と、それに合わせて大薩摩、つまり「薩摩踊りの歌」(櫓歌)を唄う人たちが登る。

 本唄は七・七・五・七・四・八・五(八・五)という他に類例のない詞型をもっており、しかも返しの部分は、歌詞はそのまま反復されているのに、節の方は別の旋律になっているという、非常に大きな特色をもっている。(日本民謡大観による)

 

 

 

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 有形文化財

  黒本尊阿弥陀如来像

 

  指定  昭和51年1月16日

  所在地 飯山

  所有者 忠恩寺

 

 

 

 

 本像は通称「黒本尊」と呼ばれているが、これは本像が黒色であることから、この呼び方になったと思われる。

 本像は阿弥陀如来立像である。

 材質は桂材の寄木造で、頭部の肉髻はあまり明確ではない。目は玉眼で、歯を見せるという他の阿弥陀如来像にはない特徴がある。飯山市域では一例だけである。

 光背と台座の蓮華座は、後世の補作である。印相は、左手が与願印(よがんいん)、右手が施無畏印(せむいいん)である。頭部の肉髻の盛り上がりはなだらかで、額には白毫(びゃくごう)があり、正面を直視する姿である。衣文は流れるようで、襞の彫りも深く、本像の気品を高めている。像の全体に古色塗りがなされているが、後世のものと考えられる。

 伝世については、享保2年(1717)、飯山藩に本多助芳が入封し、忠恩寺を菩提寺としたが、この本多家が徳川家康より拝領した阿弥陀如来像であると伝えられている。

 

 

 

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 有形文化財

  本田豊後守康重候画像

 

  指定  昭和51年1月16日

  所在地 飯山

  所有者 忠恩寺

 

 

 

 

 

 本画像は、戦国時代から江戸前期にかけて、徳川家康に仕えた武将の本多康重像である。掛け軸装で外側は縦146センチメートル、横61センチメートル、内側縦79センチメートル、横48センチメートルである。

 徳川家の譜代の家臣であった康重は通称は彦次郎、のちに徳川家康に1字をもらい「康重」と称し、三方原の戦い・長篠合戦などに従軍し戦功をあげた。その後譜代大名(岡崎城主)として5万石を領した。

 この画像の裏書に「本多豊後守康重公五十八歳御影」、さらに法号が続いており「慶長十六年辛亥三月二十二日」と命日の日付があるので、この画像の制作年代は康重の没後間もない頃と思われる。

 飯山の殿様が、明治時代に東京へ引越の際祖先の画像を処分したものの中の1幅が忠恩寺にひきとられたということである。

 飯山市域には江戸前期の絵画は希少であり、貴重な画像である。

 

 

 

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 有形文化財

  松平時代飯山城下町絵図

 

  指定  昭和51年1月16日

  所在地 飯山地区

  所有者 飯山小学校

 

 

 

 飯山城下町絵図は、写しも含めて7図あり、元々大輪院の旧蔵であったが、寄贈されて現在は飯山小学校の所蔵である。

 この松平時代の絵図は、図中に家臣の名前が見えるので、松平忠俱が支配した元禄年間(1668~1704)の作成と思われる。

 この城下町絵図は、江戸前期の飯山城下町の景観、城下町の発展過程を知る上で希少な絵図であり、貴重である。

 紙本・掛軸装 縦165cm、横97cm

 

 

 

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 史跡

  須多ヶ峯遺跡

  

  指定 昭和51年1月16日

  所在地 飯山市ノ口

  所有者 飯山市

 

 

 

 

 遺跡は、眼下に柳原の低地を望む須田峯台地の北斜面に存在する。

 昭和40年(1965)、この地に県営住宅が建設されることになり、この建設に伴って、同年夏緊急発掘調査が行われ、その結果、県下で初めての方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)2基が発見された。2基の方形周溝墓は、一部が重なり合っていた。北側の周溝墓を1号方形周溝墓、南側のものを2号周溝墓と呼んでいる。

 1号方形周溝墓は、南北で5.1メートル、東西はブルトーザーによって削平されていたため、計測不能であったが、周溝の幅は、広い所で60センチメートル。5点の完形土器が発見され、いずれも弥生時代後期に属するものである。死者を埋葬する墓拡(ぼこう)の形は、隅丸方形のプランで、長軸2.9メートル、短軸1.8メートルである。

 2号方形周溝墓は、周溝の大きさは南北で5.5メートル、東側はブルトーザーによって破壊され、計測不能であった。周溝内、墓拡内とも遺物の発見はなかった。 この2基の方形周溝墓は、1号方形周溝墓が古く、2号方形周溝墓が新しい。

 

 

 

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 有形文化財

  白隠筆古剣銘

 

  指定  昭和51年2月17日

  所在地 上倉

  所有者 正受庵

 

     

 

 

    

 

 

 唐の龐道玄(ろうどうげん)の作である「古劔銘(こけんのめい)」を、白隠が横53センチメートル、縦125センチメートルの画箋紙に大書したものである。

 現在正受庵には6幅が所蔵されているが、もとは9幅1具として伝来したものである。残りの3幅は、現在金地院(こんちいん)(東京都)に所蔵されている。もとは正受庵の襖貼りであったが、幅(ふく)仕立てに改装され、金地院の所望によって分蔵されたと伝えられる。

 なお、白隠筆の「古劔銘」には作者が龐玄道となっているが、これは白隠の思い違いらしく、実は龐道玄が正しいということである。制作年代は不詳。

 

  古劔銘 龐玄道

   余有一宝劔 余に一の宝劔有り

   是非世間鉄 是れ世間の鉄に非ず

   成来更不磨 成来更に磨かず

   晶々白於雪 晶々として雪よりも白し

   気衝浮雲散 気は浮雲を衝いて散じ

   光照三千徹 光は三千を照らして徹す

   吼作獅子聲 吼えては獅子の声を作し

   百獸皆脳裂 百獣皆脳裂す

   外国皆歸降 外国皆帰降し

   衆生悉磨滅 衆生悉く磨滅す

   滅了復還生 滅し了って復還生し

   還生作金鐍 還生すれば金鐍となる

   帯持処々行 帯もって処々に行き

   願者即為説 願う者には即ち為に説く

 

 

 

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 有形文化財

  中野不白筆恵端老漢在世自偈

 

 指定  昭和51年2月17日

 所在地 上倉

 所有者 正受庵

 

 

 

 

 

 本幅は横27センチメートル、縦65センチメートルの紙本で、上部に恵端自讃の絶句を中野不白が墨書したものであり、下段に恵端の肖像が描かれている。肖像画の画作者は不詳である。

 不白の生年は不詳であるが、没年は、享保15年(1725)で、恵端に遅れること9年であった。不白の墓石は、昭和11年に善覚寺の墓地で発見されている。

 偈の大意は、「自分は元来わがまま者である。だから世間の人々は、皆わからず屋の親父だという」と解釈できると思うが、これは反語的に読み取れば、「自分の求めている世界は、そうたやすく世間の人々にわかるはずがない」ということになる。

 

 恵端老漢在世自偈

  者老天生 (この老は天生)

  太煞顢頇 (はなはだまんかん)

  擧国僉言 (国をあげてみないう)

  無分暁漢 (無分暁漢(むぶぎょうかん)、と)

   不白九拝書

 

 

 

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 有形文化財

  恵端遺偈

 

  指定  昭和51年2月17日

  所在地 上倉

  所有者 正受庵

 

 

 

 

 横35センチメートル、縦24.2センチメートルの本遺偈は現在、条幅仕立てであるが、ごくありふれた粗紙にしたためられている。

 享保6年(1721)10月6日、恵端はこの遺偈を書き残し、80歳で示寂(じじゃく)した。

 大意は正受庵の前住職・酒井盤山氏によると、以下のとおりである。

 

 「末後一句」

  末後の一句とは、脱落心身の一句で、真如の一句と同じ意味のことであろう。

  また、「末期の一句と」は、まさに死にいどむ他人の句を見て表わすことであって、自分の一句という意味ではない。

 「死急難道」

  死急にしていい難しで、これは脱落心身の一句で、山は山でなく、脱落心身の山が山なのである。

 「言無言言」

  これは、言句を言句としない言句で、言句にとどこおらない言、言句にわたらない言という意味である。

 「不道不道」

  即ち、これが脱落の宗旨であると吐露されたと見るべきであり、分別など差しはさむことのできるものではない。 

 

 

 

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 有形文化財

  道樹宗覚遺偈

 

  指定  昭和51年2月17日

  所在地 上倉

  所有地 正受庵

 

 

 

 道樹宗覚は、恵端の跡を継いだ正受庵の2世であり、俗名は遠藤覚之進という。

 はじめ飯山城中に仕え、松平忠俱の茶坊主であったが、恵端の風格に接し、城主に願ってその弟子となった。

 宗覚は諸方を行脚していたが、30歳の時人越後高田の英巌寺で白隠と出会い、宗覚は白隠に、恵端に会うことを強く勧めたとされている。これが機縁となって、白隠は恵端から臨済の骨肉を受け継ぐことができたのである。

 本遺偈は横27センチメートル、縦25センチメートルの紙本墨跡で緞子(どんす)表装が施されている。

 享保15年(1730)11月8日、宗覚はこの遺偈を残し52歳で示寂する。

  

 辞世

  了得生前句 (了得す生前句)

  便知死後句 (便知死後の句)

  明月興清風 (明月清風と)

  万里絶消息 (万里消息を絶つ)

    喝 宗覚九拝

 

 

 

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 有形文化財

  東嶺和尚讃無難和尚像

  

  指定  昭和51年2月17日

  所在地 上倉

  所有者 正受庵

 

 

 

 

 無難和尚の肖像画の画の作者は不詳であるが、本幅にしたためられた讃の作者・東嶺圓慈(とうれいえんじ)禅師は、臨済宗妙心寺派の僧で、近江国神崎郡小幡村(現滋賀県神崎郡五個荘町)に、中村善左衛門の子として生まれ、9歳の時に同郡の大徳寺の亮山恵林に従い出家した。

 行脚ののち、寛保3年(1742)に駿河国松陰寺の白隠禅師の門をたたき、寛延2年(1749)に印可を得た。

 のちに、東嶺禅師が建立したとされる「裁松塔(さいしょうとう)」が現在まで正受庵の残っている。

 絹本・墨書・軸装 縦67センチメートル 横41センチメートル

 

  打出四庵主

  摂成一野僧

  老愚堂種火

  闇夜桃狐燈

  安永十年四月日謹讃

  至道菴主肖像以留正受

  神菴之識

    法孫圓慈拝書 花押

 

 

 

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 天然記念物

  山田神社の大杉

 

  指定  昭和51年2月17日

  所在地 豊田

  所有者 山田神社

 

 

 

 

 杉はスギ科のスギ属でアジアに1種という日本特産種で、殆ど日本だけに生育するものである。この杉は山田神社のご神木2本で、容姿は見事で大きなしめ縄をまわした姿は強い横綱を思わせる。 

 

 

 

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 有形文化財

  阿弥陀如来立像

  

  指定  昭和58年3月23日

  所在地 関沢十王堂

  所有者 関沢区

 

 

 

 

 現在関沢の十王堂に地蔵菩薩像・十王像と一緒に安置されている。

 十王堂の南には大きな庚申塔があり、この場所が関沢の民間信仰の上から大切な場所であることがわかる。

 長い間の香の煙等で全体が黒くなっているが、光背は舟形光の透かし彫で、頭光は円光である。

 印相は左手が与願印、右手が施無畏印である。台座は蓮華座で敷茄子は透かし彫である。華盤も大きく開き反花、框と蓮華座の様式に従っている。

 本像は現在も関沢の人々の篤い信仰を集めている。

 飯山市域の村の阿弥陀信仰を知る上で貴重な作例である。

 

 

 

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 有形民俗文化財

  今井伊勢社

 

  指定  昭和61年1月24日

  所在地 今井(常郷)

  所有者 常盤神社

 

 

 

 五束の伊勢社より7年早く建立されたもので勧請された社も伊勢の内宮・外宮を含め、その摂社・末社に限られている。

 内宮・外宮併せて126社の石の祠に社名と寄進人名が陰刻されている。

 寄進人は現太田・常盤・平林・岡山地区の延べ148人である。

 

 

 

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 有形民俗文化財

  万仏山観音石像及び本尊

 

  指定  昭和61年1月24日

  所在地 福島

  所有者 福島区

  

 

 

 この三十三観音は、西国三十三観音である。第一番観音の台座に陰刻の銘文で、「嘉永元年申四月二日立之」とあり、1848年4月の造立であることが分かる。

 施主は福島の武田三郎右衛門・大月治郎兵衛が中心となり、他に福島・戸那子・曽根島の村人である。世話人として若者中とある。

 この観音像群はどれも深肉彫で、形態別には坐像12基、立像21基である。種別では千手観音像13基・十一面観音像7基・如意輪観音像6基が多く、不空絹索観音・准胝観音・馬頭観音等がある。

 三十三観音と大日如来は、造立された当初の原位置のままであり、飯山市域でも希少である。福島の棚田の石垣とも併せて、この景観は貴重である。

 

 

 

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 有形文化財

  石田家文書

 

  指定  平成4年2月18日

  所在地 常盤地区活性化センター

  所有者 飯山市

 

 

 

 

 

 石田家の出自については、所蔵文書から確認することはできない。所蔵文書での初見は武右衛門名であり、延宝5年(1677)以降の活動がわかる。武右衛門は戸狩村の名主を何年か務めた有力農民であった。なかでも2代目小右衛門は宝暦9年(1759)から退任する享和元年(1801)まで40年余の間、戸狩村の名主を務めあげた。その人望は近隣の村々でも高かったらしく、多くの出入の扱いを任せられている。

 この石田家文書は総数5000点余で、書状1280、貢租1228、商業・産業727、貸借686、土地376、出入319等である。石田家が経済的に発展する関係の文書が多い点、出入関係も多いことなどが特色と思われる。

 飯山市域で、このように近世の膨大な文書が1軒で保存されているのは、他に例がない。飯山市域の江戸時代の農民生活、商業活動等を知る上でも貴重な文書である。 

 

 

 

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 有形文化財

  五束の道祖神

  

  指定  平成4年2月18日

  所在地 五束

  所有者 五束区

 

 

 

 

 

 道祖神は本来「さえの神」で、悪魔や疫病など人生の幸福を妨げるものを追い払うために、村境の道端等に祀られたものである。

 この道祖神のある場所は、北条・五束・堀の内の3集落の境の十字路にあたり、他に庚申塔など7基の石造物が見られる。

 この双体道祖神は延享3年(1746)の銘文の陰刻があり、飯山市域の道祖神としては最古のもので、県下でも有数の古い双体道祖神である。

 向背の右側に「道祖神」、左側の側面に「小野沢氏」と陰刻されている。小野沢氏が施主と考えられるが江戸時代、何代か名主を務めた小野沢氏かどうかは不明である。

 この場所には庚申塔・猿田彦など7基あり、庚申信仰の面からも、道祖神信仰からも大事であり、この地域の民間信仰を考える上で大切な作例である。

 碑高50センチメートル、幅40センチメートル。

 

 

 

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 有形文化財

  大深の五輪塔

 

  指定 平成4年2月18日

  所在地 大深(常郷)

  所有者 個人

 

 

 

 高さが第1塔・南側は181センチメートル、第2塔・北側は187センチメートルである。飯山市域では最大の五輪塔で、北信地域でも有数の大きさである。

 第1・2塔とも、水輪部正面に阿弥陀種字である。キリークの梵字が陰刻されている。飯山市域の五輪塔は無銘で、種字は刻銘されていない。県下でもこの五輪塔のように、阿弥陀種字を陰刻した五輪塔は作例がほとんどなく貴重である。

 伝承ではこの五輪塔は、城氏と木曽義仲の戦闘で討ち死にした武将で墓であるとされており、この地域が中世の歴史に関わる地であったと考えられる。

 飯山市域の中世の歴史を解明する上でも、大事な作例である。

 

 

 

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 史跡

  藤ノ木の御旧跡(伝親鸞聖人・蓮如上人御旧跡)

 

  指定  平成4年11月17日

  所在地 藤ノ木

  所有者 藤ノ木区

 

 

 

 

 鎌倉時代初期、承元元年(1207)、浄土真宗の開祖親鸞は越後国府に流罪となった。建暦元年(1211)赦免となるが、そのまま布教を続け、建保2年(1214)に家族を伴い常陸(ひたち)国に布教におもむく。途中藤ノ木に立ち寄ったというが、その時の伝承がいくつか残されている。

 時代がすぎて室町時代中期、浄土真宗中輿の祖といわれる本願寺八世蓮如が、始祖親鸞の巡鍚の跡をたどって越後樽本から大川を経て、この地に至ったという。その折に、この御堂の庭に1本の榎(えのき)を植えたという。この榎がよく成長、繁茂したので、いつしかこの御堂を榎御坊と呼ぶようになったという。

 本堂は、弘化4年の地震で倒壊し、嘉永2年近隣門徒の寄進によって再建。

 その後昭和35年には、近隣の火災により本堂屋根・付属建物を焼失した。そのため当時の面影はないが、前期歴史上の人物の逗留伝承や滞在したと認められることなどとともに、当地方の民間宗教を知る上で欠かせない重要な場所(史跡)である。 

 

 

 

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 有形民俗文化財

  秋津の祭り屋台

 

 指定  平成4年11月17日

 所在地 静間及び蓮

 所有者・管理者 上組区、中山根・伍位野区、大久保区、中町区、北畑区

 

   

 

 

  

 

 

 

 

 

 秋津地区には、信国豊濃(しんこくゆたかの)神社に奉納する2台の屋台(上組(かみぐみ)1台、中山根・伍位野1台)と静間神社に奉納する3台の屋台(大久保1台、中町1台、北畑1台)の計5台の屋台がある。

 各神社の秋の例祭には、それぞれの担当地区の屋台が、五穀豊穣や地域の繁栄、住民の安全等を祈願し、村内を練り歩き、最後に各神社に奉納される。

 〈上組〉

 木造・宮造、箱型、車付(材料は主として欅、飾りは浮き彫り)  次のような2つの説がある。

 1 江戸時代末期に須坂方面へ江戸深川の職人を招いて建造したもののその後(慶応~明治時代)に譲り受けた

 2 同時代に当地において建造された。

 〈中町区〉

 江戸末期に小布施近在で建造、飾り山車として保存されていたものを、明治13年中町区に譲り受け、引き山車として手直しを加え、その年の豊作の秋のみに神社へ奉納してきた。

 〈大久保〉  

 明治22年に完成し、その年の、秋の豊作のみ神社に奉納する。村人たちは、集落の豪をあらわす為、当時巨額の費用をかけた。

 〈北畑〉

 明治22年頃台車を長野市赤沼より買ってきて、欄間等は当時の青年会の方の寄付により完成したもの

 〈中山根・伍位野〉

 慶応4年春頃、山根、中組有志(60名)により須坂の田中某氏より当時巨額の費用をかけて譲り受け、神社に奉納した。

 高井郡高井野村の棟梁・彫刻師である二代目亀原和太四郎嘉重の作と推定されるという。

 

 

 

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 有形文化財

  鳥出神社の算額

  

  指定  平成5年11月25日

  所在地 下木島

  所有者 鳥出神社

 

   

 

 

 2枚の算額が社殿に奉納されている。算額は江戸時代、飯山地域には和算家がおり、和算を学ぶ人たちがいたことが分かる。

 左図(第1額)は天保14年(1843)の奉納、右図(第2額)は弘化4年(1847)の奉納である。第1額の方がやや大型である。

 算額の内容は、第1額が6問ある。第2問と第5問は天保14年(1843)に善光寺に奉納された算額と同じ内容である。第3問は一川谷大元神社(穂高)の算額の第1問と同一である。和算が北信地域で盛んであったことがうかがわれる。

 第2額は図形問題と測量の結果を記した図である。5万分の地形図とは測量の結果に誤差がある。

 この2枚の算額は江戸時代に庶民文化の一つである和算が、飯山市域でも盛んであったことがわかる貴重な材料である。

  〈奉納者〉

   第1額…本山宣智と門弟3名

   第2額…小野沢太郎左右衛門良道

 

 

 

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 有形文化財

  小菅神社奉納絵馬「黒神馬・白神馬」

 

  指定  平成9年1月20日

  所在地 小菅文化財収蔵庫

  所有者 小菅神社

 

   

 

 

 

 黒神馬・白神馬の2面あり、いずれも縦150センチメートル、横180センチメートルの板絵である。裏面に次の墨書きがあり、いずれも慶長11年(1606)に製作寄進されたものである。

  (黒神馬)皆川山城守藤原朝臣廣照

  (白神馬)寄進皆川主膳正廣泰

      慶長拾壱年丙午六月

 黒神馬は夜になると密かに抜け出し、田の作物を食い荒らすので、後に手綱を描き加えたところ、それ以後、抜け出すことがなくなったという伝説が残っている。ただし、手綱を後から加えたような痕跡は認められない。

 

 

 

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 有形文化財

  小菅神社奉納額絵「花鳥の図」

 

  指定  平成9年1月20日

  所在地 小菅文化財収蔵庫

  所有者 小菅神社

 

   

 

 

 裏面墨書によれば、「弘化4年(1847)の善光寺地震の際に飯山城下は家屋が倒壊し大打撃を受けた。この修復のために木材を多量に必要としたが、なかなか集まらずに困窮していたところ、小菅山別当現住英真法印の計らいで、山木数百本を得ることができた。この恩恵に報いるため、ささやかではあるが本額絵を奉納する」とある。

 作者は銘文中に「佐久間伴右衛門源晋」とあることから、飯山藩臣であり、優れた画家でもあった佐久間雲窓によって描かれたものに間違いないであろう。

  ●銘 記

  〈額絵裏面墨書銘〉

   弘化丁未三月信北水内郡之地大震

   城邑屋宇一時壊覆欲収補之無良材

   干時高井郡小菅山別当現住英真法印

   山木數百本助之得復休舊貫是以預其

   事諸臣為報神恩懸扁額以表微誠云

 

    飯山藩臣

    物集女宇右衛門源正森

    吉松雄蔵源集徳

    佐久間伴右衛門源晋

    奥平俊二郎藤原政晁

    跡部金吾源義孝

    宮本惣三郎源貞燾

    荻原藤之助藤原施政

    清水半右衛門平貞政

    栗山源左衛門正至

    佐藤繁八信清

    宇田清八幸榮

    常田喜七正矩

    西川惣右衛門能房

    常田善之丞政清

    前澤徳右衛門正方

    木工 重五郎

     久 吉

 

 

 

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 天然記念物

  小菅のイトザクラ

 

  指定  平成9年1月20日

  所在地 小菅

  所有者 小菅神社 氏子総代長

  

 

 

 

 シダレザクラのうち、エドヒガンザクラのしだれ型をイトザクラという。小菅地区には小菅神社講堂前と奥社入口の2本があるが、奥社入口のものが指定されている。

 市内において、これほどの大木のイトザクラは無く、樹勢も良い。

 巨木である点と、かつての小菅山の隆盛を物語る天然記念物であることから貴重である。

 

 

 

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 天然記念物

  熊野神社のケヤキ

 

  指定  平成9年1月20日

  所有地 柄山(照岡)

  所有者 桑名川柄山区長

 

 

 

 

 県指定「鳥出神社のケヤキ」に次ぐ大木で柄山(からやま)区熊野神社の御神木である。根元に近い部分から2本に分かれている。

 この枝を広げた大ケヤキは、当地区の景観として貴重である。

 幹囲 8.45メートル 樹高16.1メートル(計測当時)

 

 

 

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 有形文化財

  健御名方富命彦神別神社奉納諏訪大明神青銅縣額

 

  指定  平成9年1月20日

  所在地 五束(大字豊田)

  所有者 健御名方富命彦神別神社

 

 

 

 

 寛文12年(1673)飯山城主松平忠親が当神社の本殿(国重要美術品)、拝殿、鳥居にいたるまで再建された。一連の社殿、鳥居の竣工に合せて、青銅製の鰐口と青銅製の懸額を奉納した。鰐口は安永6年に盗難に遭い藩の会所へ届け出て人を雇い探したが見つからなかった。懸額は青銅の流し込みで丈93cm、幅46cm、大人一人でようやく持ち上げられる程の重さである。正面には独特の書体で「諏訪大明神」と陽刻され、裏面には

  奉懸署偏

  信州水内郡五束村

  諏訪大明神

  延宝三年龍集乙卯林鐘穀旦

  飯山城主遠江守従五位下源姓松平忠親

と陰刻されている。この額は二人がかりで持ち運びし現在は祈年祭と例祭時のみ二の鳥居にかけている。

 この独特の文字を書いた人の名までわかっており、歴史的に貴重である。 

 

 

 

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 有形文化財

  健御名方富命彦神別神社の薙鎌

  

  指定  平成9年1月20日

  所在地 五束

  所有者 健御名方富命彦神別神社

 

 

 

 

 鎌のような形をしているが、目も口もあり、背には鋸目があり、諏訪信仰特有の呪具と考えられている。

 当社の薙鎌は5体あり、形の大きいものから82cm、75.1cm、74cm、66cm、15.1cmで、時代によって大きさが違うことを示している。

  【高橋社家の系譜】

  文亀元年辛酉四月諏方之薙鎌ト云物得堀之内於其所建祠奉称諏方明神奉別遷當大宮諏方宮者也

  文亀元年(1501)4月、堀之内で薙鎌を得たので、当家二十二代忠清(のちに義長)祠をその所に建て、諏訪大明神と称したことがわかる。

  【信府統記】

  中土村に白池あり、そのはてに信濃木とて神木あり、古より七年に一度ずつ、下諏訪の武居親方より明神の神体を表す内(薙)鎌というものを持ち来りてこの木に打ちおくなり、それよりこの木を両国の境となす…」  

  【高橋家系譜】

  「延暦三年甲子春二月行境祭」

 上記を考え合わせると、この地方には古くから境祭りの神事が行われ、その境にあたる神木に御柱祭ごとに薙鎌が打ちこまれたことが推測できる。

 

 

 

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 天然記念物

  沼池のヤエガワガンバ

 

  指定  平成9年1月20日

  所在地 沼池

  所有者 下水内中部土地改良区

      沼池用水委員会

 

 

 

 

 沼池のヤエガワガンバは、北信地域では唯一と思われ貴重である。

 ガンバの仲間は寒地性の植物で、

  シラカンバ…本州中部以北

  ダケガンバ…四国の高山と本州中部以北

  ウガイガンバ・ヤエガワガンバ…中部以北

 に産するものである。斑尾地区にはこの4種がみられる。

 ヤエガワガンバはコオノオレといって、幹の樹皮が亀の甲状に八重に裂けて脱落しやすくなっている。

 胸高幹囲2.10.m(平成8年10月28日計測当時 高橋勧 他調査)

 樹高16m(平成4年9月30日計測当時 中部土地改良区調査) 

 

 

 

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 史跡

  有尾1号古墳

 

  指定  平成9年1月20日

  所在地 有尾

  所有者 個人

 

 

 

 有尾集落の北方、長峰丘陵の東南端に3基あって、北より1号墳~3号墳と呼ばれている。有尾古墳といった場合は1号墳を指している。

 有尾古墳は長い間、前方後円墳の一種である帆立貝式古墳とされていたが、平成6年実地測量したところ前方後方墳であることが確認された。

 古墳の大きさは、全長35メートル、前方部長さ11メートル、高さ1.5メートル、くびれ幅7メートル、後方部長さ24メートル、高さ3.5メートルである。実地測量を行っただけで発掘調査は行われていない。したがって内部構造等については、まったく不明である。

 

 

 

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 史跡

  法伝寺2号古墳

 

  指定  平成9年1月20日

  所在地 北畑

  所有者 法伝寺

 

 

 

 

 この古墳は呼び名が次々と変わっていった。当初は円墳、前方後円墳の一種である帆立貝式古墳、さらに前方後方墳という具合である。

 平成8年実地測量が行われ、その結果、前方後方墳であることが確認された。飯山地域では2例目の前方後方墳の発見であった。

 昭和20年代後半、本古墳の後方部頂上から1本の鉄剣が中学生たちによって発掘された。この鉄剣は現在、法伝寺の寺宝となっている。

 全長 23メートル 前方部の長さ9.5メートル 高さ2.1メートル くびれ幅4メートル

 後方部の長さ13.5メートル(推定) 高さ2.6メートル

 

 

 

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 天然記念物

  大久保のサルスベリ

 

  指定  平成10年5月18日

  所在地 大久保

  所有者 個人

 

 

 

 

 サルスベリはミソハギ科の樹木で、原産は中国である。日本には、江戸時代初期に移入されたものと考えられている。

 市内に存在するサルスベリ3本の中で大久保のものが最も大きく、樹齢が200年以上で姿形も良い。

 また長野市で指定されている中村のサルスベリよりも根元が太く、樹高も高い。

  計測当時 胸高幹囲125センチメートル、樹高7.5メートル

 

 

 

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 有形文化財

  正受庵の鐘楼

 

  指定 平成10年5月18日

  所在地 上倉

  所有者 正受庵

 

 

 

 

 この鐘楼は、昭和の初期まで愛宕(あたご)山上にあって、飯山小唄に「寺は三十六、鐘なら愛宕」と唄われ、市民に親しまれてきた愛宕町の大輪院の鐘楼である。

 飯山鉄道(現JR飯山線)の敷設の際に飯山城跡に移築されたが、戦後、再び正受庵に移された。移築された際に規模などは変わっているが、「寺の町飯山」を代表する貴重な建造物である。

 屋根や基礎などの痛みがひどくなったため、平成10年に大改修された。

 愛宕の鐘は元禄元年(1688)に飯山城主松平忠忠倶が、その祈願所である大輪院に寄進したものと伝えられている。その鐘の音の美しさから「愛宕の名鐘」として親しまれていた梵鐘は、他の寺院の鐘とともに太平洋戦争中の金属回収の際に供出された。

 現在の鐘は、昭和28年春、第9世月菴(げつあん)和尚の代に、多くの信徒により新たにおさめられたものである。

 

 

 

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 有形文化財

  至道無難筆「平常道」

 

  指定  平成10年5月18日

  所在地 上倉

  所有者 正受庵

 

 

 

 

 恵端禅師の師・至道無難の筆で、明治25年(1892)5月10日に、当時の正受庵住職・吉田瑞雲が上京の折、東北寺の白潜和尚から正受庵に寄贈されたものである。

 この書には、内面からにじみ出るような力強い筆致の中に、見る人を包み込むような温かみが感じられる。

 「平常道」という言葉は、「無門関」第十九に見られる、唐の高僧・南泉普願の語「平常心是道」によるもので、平常心をいかに持つべきかを絶えず追求し、無心の境地で思いのままに生きることを提唱している。

 無難が活躍した17世紀後半は、書道史の上で「寛永の三筆」と呼ばれる能書が派生した時代であったが、そのような中で無難は傑出した仏教者としてはもとより、その書もまた卓越した稀有な存在といえるものである。

 

 

 

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 有形文化財

  白隠筆「初夢画讃」

 

  指定  平成10年5月18日

  所在地 上倉

  所有者 正受庵

 

 

 

 

 白隠禅師によって描かれた墨画で、茶掛風に表装されている。

 本軸は、かつて伊豆の龍澤寺から正受庵に寄贈されたものと伝えられている。

 画面は、中央に薄墨の太い線で富士山の姿を描き、左方の空間と富士の右裾に霞か雲を三筆ほど描いている。画面の下方左より一列の鷹の羽、紺色の3個のなすび、その横に白なすを1個配している。

 おそらく画面は、最初から計画的に構図を決めて描かれたものではなく、白隠禅師の心に浮かぶままに無造作に筆を走らせて描かれたものと推測される。

 物事にとらわれず、ひょうひょうと描かれた単純明快な墨跡のなかに、個性的な禅師の自由で闊達な生き方が表現されている。

 また、右上部には狂歌風の句、左上部には俳句風の句が書かれている。

 本軸をはじめ正受庵に残されている多くの什宝は、山岡鉄舟、高橋泥舟両居士の尽力によって、諸方から集められたものである。

 

   をふじさん

   霞の小袖をぬがしゃんせ

   雪のはだが

   見とうござんす

 

    初夢や

    一冨士

    二鷹

    三なすび

 

 

 

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 有形文化財

  正受庵十一面観音像

 

  指定  平成10年5月18日

  所在地 上倉

  所有者 正受庵

 

 

 

 

 正受庵への伝来は明らかではないが、「飯山町誌」によると、飯山藩主松平忠俱が恵端禅師の帰飯を喜び、禅師に一庵を造り与え、本十一面観音像を贈ったと伝えられているが、真偽については明らかではない。また、一説には上町の某堂に安置されていたのを、いつの時か奉納されたものであるとも伝えられている。

 面相部の豊かな頬張り、左右対称の浅く整えられた衣文、裳正面にめぐらされた二重の天衣(てんね)など、平安後期の彫像様式を示しているが、本像は地方の仏師によって、平安仏をまねて造られた可能性が高い。

 本像は檜材を用い、頭体幹部・両腕及び体側の天衣は体幹部の一材から彫出されているが、左腕の肘先・両足先は別材で、頭頂及び天冠台周囲の化仏は、すべて後のものである。なお魚鱗三段葺の蓮華座を除き、舟形光背・反花座・框座も後のものである。

 裳部表面には、漆箔の痕跡が確認されたことから、造られた当初は全身に箔が施されていたものと推測されるが、現在はほとんど剥落し、木肌が露出している。

 

 檜材・一木造・彫眼・漆箔 像高35.5cm、頭高9cm、台座の高さ5cm、肩幅8.5cm

 

 

 

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 天然記念物

  大川のイチョウ

 

  指定  平成10年5月18日

  所在地 大川

  所有者 個人

 

 

 

 

 このイチョウは雌株である。雌株としては飯山市内で最大を誇る。イチョウは実(ぎんなん)がつかない雄木の方が大きくなる傾向がある中、

 このイチョウは雌木として外様顔戸の蓮華寺の雌木(幹囲610cm:計測当時)より大きいということで指定された。

 特に大川のイチョウは、幹の下部から太い枝が曲がりくねって出ている奇妙な樹形をしている。

 

 胸高幹囲 640cm 樹高33.8メートル(計測当時)

 

 

 

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 天然記念物

  正行寺のイチョウ

 

  指定  平成10年5月18日

  所在地 南条

  所有者 正行寺

 

 

 

 

 本堂前の一対のイチョウは、寛政10年(1798)火災後の再建の折に植えられたものという。

 県指定「神戸のイチョウ」の次に大きく、胸高幹囲675cm(計測当時)としないで2番目の大木で、姿形もよく、幹の股にケヤキが育っていて風情がある。所有者が根元の土を掘り返したりして、根元近くを踏み固められないように保護している。

 寺の入り口の池の端にあるケンポナシの古木とケヤキはその姿を池に映し趣をそえている。前の墓地と裏の丘には、ミズナラ・コナラ・ケヤキ・コブシ・アズキナシ・イタヤカエデなどの大木があり、樹下にはクマヤナギ・ヒメアオキ・ヤマウコギ・クロズル・ノリウツギなどが地を覆っている。 

 

 

 

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 有形民俗文化財

  五束の伊勢社

 

  指定  平成10年5月18日

  所在地 五束

  所有者 健御名方富命彦神別神社

 

 

 

 

 この地方で天明3年(1783)に伊勢講が組織された。講中でくじを引いて、参詣のために毎年2名の代参人を伊勢へ送り出し、講を開いて御祓大麻(今の神宮大麻)を講員に分けた。道中は次のようである。福島(須坂)→坂木(坂城)→上田→長久保(長門町)→下ノ諏方(下諏訪)→贄川(楢川村)→福島→三留野(南木曽町)→池田→熱田宮(名古屋)→佐屋(舟に乗る)→桑名→松阪→舟で二見へ→伊勢参宮。

 以上のコースで、結局家を出てから14日かかって伊勢へ着いている。

 伊勢講結成以来、67年目の嘉永3年(1850)に石造物の伊勢宮を造った。

 この伊勢宮は正面の内宮外宮を取りまいて各国の一の宮が配され、奉納人の住所氏名(苗字付)が陰刻されている。片側に39基ずつ合計78基、内宮外宮併せて80基に設定されている。 

 

 

 

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 天然記念物

  小菅のヤマグワ

 

  指定  平成10年5月18日

  所在地 小菅

  所有者

 

 

 

 

 マグワ(別名カラヤマグワ)は、かつて養蚕のために栽培されたので市内各地で見られるが、ヤマグワの大木はここに見られるだけで長野県でも珍しい。

 このヤマグワは雌木で、市内では唯一のものである。

 計測当時 根回り1.9m 胸高幹囲160cm 樹高11.5m

 

 

 

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 有形文化財

  菩提院の紙本著色十六善神画像

  

  指定:平成12年3月27日

  所在地 小菅

  所有者 菩提院

 

 

 

 

 元大聖院所有のものであったが、明治初年の廃仏毀釈の際に菩提院に移されたものと伝えられる。

 十六善神は、大般若教とその経典は読み上げる人々を守護する十六体の夜叉善神を指す。本図は、主軸に釈迦三尊、左右に十六善神を描いた三幅の画軸に仕立て上げられていたと推定されるが、画面中央の接ぎ目の段差から、いつの時代にか主軸が失われ、左右の善神図を併せて1幅の画軸に仕立て直したものと推定されている。

 描かれた尊像はかなり腕の立つ画工の手になるもので、製作年代も江戸時代中期以前と推定されている。

  紙本・墨書・淡彩・軸装 縦176cm 横213.5cm

 

 

 

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 有形文化財

  菩提院の紙本著色涅槃・極楽・地獄絵図

 

  指定  平成12年3月27日

  所在地 小菅

  所有者 菩提院

 

    

 

 

 〈涅槃絵図〉

 釈迦がクシナガラ沙羅双樹の下で入滅した日の情景を描いたもので、大乗仏教では、釈迦の誕生などとともに極めて重要な事跡とされてきたものである。

 中央に沙羅双樹で囲まれた床座をおき、その上に向かって左(北)を枕にして西向きに横たわる金色身の釈尊を描き、その周囲に入滅を泣き悲しむ諸菩薩・弟子・諸衆などを配している。

   縦187cm 横113cm

 〈極楽絵図〉

 極楽浄土は、西方十万億仏土を過ぎたところにあり、そこでは諸事円満にして、生死・寒暑、優悩等の衆苦はなく、ただ楽しみがあるとされる。迎えてくれた阿弥陀如来が、さらに解脱のために説法をしてくれる。その世界を表した絵図である。

   縦190.5cm 横120.5cm

 〈地獄絵図〉

 地獄とは、衆生が自らつくった悪行によっておもむくべき地下の牢獄のこと。様々な地獄を合せて百三十六地獄あるという。 極楽浄土への願いの裏返しとして、人々が恐れた地獄を絵図にしたものである。

   縦 183.5cm 横112cm

 

 

 

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 天然記念物

  三桜神社のブナ

 

  指定  平成12年3月27日

  所在地 尾崎

  所有者 三桜神社

 

 

 

 

 神社の境内に植栽したものではなく、ブナ林の中に神社を建てたもので、かつて飯山の平地にもブナ林があったことを示しており、貴重である。

 ブナは月平均気温10℃以上が4~6か月間続く冷温帯と呼ばれる地域に分布し、そこはリンゴの生産地域と一致する。

 ブナの生育はきわめて遅い。これに加えてブナの実生・稚樹の生育はササによる被圧、ウサギの食害、病虫害などによって阻害される。したがって、伐採跡地のブナの再生は困難である。

 

 

 

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 無形民俗文化財

  五束の御柱行事

 

  指定  平成13年11月19日

  所在地 五束

  所有者 健御名方富命彦神別神社

 

 

 

 

 高橋社家系譜に、「宝亀五寅(774)四月立御柱於宮之左右而祈御年也」とあるが、ほかに証するものはない。

 現行の御柱は、ずっと後の寛政12年(1800)神主高橋義安が諏訪大祝(すわのおおほうり)から祭式を伝授され、それを「御柱祭礼圖式」(現存)にまとめて、それに基づいて執行している。

 当社では最初から4本ではなく2本で、まず

 ①御柱見立て…雪の無い時から杉林を見ておく。

 ②御柱切り…寅(申)の年2月(旧暦)の寅(申)の碑に山で清祓いをしてから斧と鋸で伐採、山作人が枝等切り離し本と末は山に置く、冠付が御柱の先を冠形にする。

 ③山出し…三月の寅(申)の碑に惣産子で御柱休み場(白山社)まで曵き出す。

 ④当日御柱曳き始め四つ時(10時)か九つ時(12時)

 ⑤一の御柱(長さ5間5尺・太さ1尺以上)と二の御柱(長さ5間3尺・太さ1尺以上)を本宮前で交差する。

 ⑥御柱を立てる。

 ⑦後日、寅(申)御殿を建てる。

 ⑧御柱を曳きあげて立て終わるまで拝殿にて中臣祓を唱える。閉校して木の神・水の神・火の神・五穀の神を祭る。

 ⑨立て終わった時は大声で「千秋楽」「万歳楽」と叫び薪銭をする。

 以上のようであったが、最近は簡略化されたり機械化されたりしてきている。

 

 

 

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 有形文化財

  小菅の阿弥陀三尊像

 

  指定  平成13年11月29日

  所在地 瑞穂

  所有者 小菅区長

 

 

 

 

 この三尊像は、阿弥陀如来座像を中心に脇侍として、左に勢至菩薩立像、右に観音菩薩立像と阿弥陀三尊像の様式である。阿弥陀如来座像は寄木造りで内刳りがしてある。両膝部が胴体部と接合している。脇侍も寄木造りである。三尊像とも漆箔像である。阿弥陀如来座像は光背が舟形光背で頭光・身光が二重円相光である。眼は玉眼である。肉髻は明らかで、大きめの螺髪も彫りが深く、肉髻朱も朱が鮮やかである。印相は上品上生の来迎印であり、弥陀定印でもある。衲衣は偏胆右肩で、襟元が大きく開き中央部でまとまっている。両膝部分の彫りは襞も深く、衣紋も明確である。台座は八角の二重框の上に蓮華座で蓮弁の素朴な彫りで大きく、本尊にふさわしい、内刳りの体内に、「享保十七年 子秋 願主 大聖院住 恵舜」「小菅山講堂本尊 再建立也」「為俊栄法印并俊存」「金箔壱枚寄 進」の墨書が体内に直接書かれている。また、膝の部分に「京四条通 大仏師 奥田杢之丞 花押」木札がはめ込んである。これから、この阿弥陀如来像が京仏師、奥田杢之丞により、享保十七年(1732)に造立されたことが分かる。本尊は優美で格調高く、飯山市域ではこれだけ大きな阿弥陀如来座像の作例はない。また、脇侍は作風が素朴であり京仏師の作例ではなく、地方仏師の作例と考えられるが、阿弥陀三尊像として、この三尊像は、大聖院が江戸時代の飯山市域で、寺院として篤い信仰を集めていたことを示す一端である。

 

 

 

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 有形文化財

  五束の狛犬

 

  指定  平成13年11月29日

  所在地 豊田

  所有者 健御名方富命彦神別神社

 

 

 

 

 本像は、桂材一木造で、単純化された像容は、小ぶりであるが全体的に均整がとれていて美しい。両像とも虫害により脚部・臀部などが欠損している。高さは阿形32.7cm、吽形30.0cmをはかる。阿形は頭部に巻髪を刻む。また、両像とも胸部下、腹部の境目に丸弁の菊花様の大きな刻みを付す。当初は彩色がなされていたものと思われ、現状頭部に緑青彩の痕跡、口部の歯列に胡粉彩色が確認される。

 制作年代は、阿形の巻髪及び体側の波形文様の刻み方などから室町時代後半と思われる。

 市内例では、文明9年(1477)造立と考えられる大倉崎神社の狛犬とともに、中世にさかのぼる狛犬として貴重である。

 

 

 

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 史跡

  小菅大聖院跡及び奥社参道

 

  指定  平成15年1月15日

  所在地 瑞穂

  所有者 小菅神社

 

 

 

 

 小菅山元隆寺として隆盛を極めた修験場の中核であつた大聖院は、現在建物はなく、石垣と護摩堂、そして池が当時の繁栄を伝えている。また、奥社参道は杉並木が県指定されるなど、当時の景観を最も残している場所である。

 小菅大聖院は中世に栄えたとされる小菅山元隆寺別当の院坊であり、上の院とも称されていた。現在は梅鉢積みとも称されている石垣の上に護摩堂及び京風の池泉回遊式庭園並びに大聖院の礎石がある。中世の小菅修験を理解するうえでも最も重要な場所であり、市民史跡学習の場として保護・活用していくべきと考えられる。

 

 

 

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 無形民俗文化財

  桑名川の大祭

 

  指定  平成15年1月15日

  所在地 照岡

  所有者 桑名川区

 

 

 

 

 古来宵祭りが8月31日、翌9月1日が例祭であったが、現在では9月1日に近い土・日に行われている。剣の舞はかつて土倉集落に伝えられたものを桑名川で引き継いだものである。

 元東京国立文化財研究所三隈治雄郷土芸能研究室長は、「(剣の舞)が獅子舞やなぎがた舞、さいとりさしなどの芸能と、一続きに上演される点は、飯山地方の郷土食というべきもので…」と評している。

 祭りの準備・執行についても「とうろうづれ」はなくなっているが前日の総稽古や当日の役割発表・神事などの所作は古くから受け継がれている伝統にのっとって行われている。

  所作 獅子舞 天狗しめきり なぎがた みおまい 剣の舞 さいとりさし(さいとり舞)

 

 

 

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 天然記念物

  犬飼神社のカツラ

 

  指定  平成15年5月30日

  所在地 瑞穂

  所有者 犬飼神社

 

 

 

 

 犬飼郷は、天応元年(781)朝廷から信濃にて20戸の封戸を受けた葛木犬養神に由縁のある所と考えられており、その事に基づいて往時この諏訪神の境内に「カツラ」を植えたといわれている。

 市内のカツラとしては、最も大きく貴重である。

 

 

 

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 天然記念物

  瀬木のイチイ

 

  指定  平成15年5月30日

  所在地 豊田

  所有者 個人

 

 

 

 

 所有者宅は総本家で、当時の庭にこの木があり、真向いの分家ともども庭を愛でていたと伝えられている。また、宝暦4~9年(1753~1759)の瀬木の箱訴事件をつぶさに見てきた生き証人ともいわれており、貴重である。

 

 

 

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 有形文化財

  西方寺の雲室書簡

 

  指定  平成16年5月26日

  所在地 照里

  所有者 西方寺

 

   

 

 

 本書は、武田雲室が西方寺の住職圓端(5代)に宛てた書簡であり、これらの書簡から、雲室が僧侶、画家、書家、儒学者、教育者として全国的に高い評価を得ていたことが伺える貴重な資料である。

 

 

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 無形民俗文化財

  烏踊り

 

  指定  平成16年5月26日

  所在地 市内全域

  所有者 からすおどり保存会

 


 

 戸隠山修験道の先達宣澄法印を供養して踊る宣澄踊りをもとにし、その踊りは北信濃(飯山市、木島平村、野沢温泉村、栄村など)一帯に流布した。およそ300年以上の歴史を有する伝統的民俗芸能だと言われている。また、この踊りの名称については、元来山岳信仰に源を発する日本の修験道ではカラスを神の使いと目してきたことから、それに因んで名前が付いたものとみられる。

 つまり、戸隠山修験道の行者たちは彼らの宗教活動の一環として各地に戸隠講を組織し、その中でこのカラス踊りを歌い踊ってきたものとみられている。野良着姿に手拭いで頬かぶりをした男性が、酒を酌み交わしながら踊る「踏む」「蹴る」の動作が中心の素朴な踊りで前唄・中唄・後唄からなり、七五三踊りともいわれている。

 

 

 

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 有形文化財

  真宗寺方便法身尊形

 

  指定  平成19年6月6日

  所在地 飯山

  所有者 真宗寺

 

 

 

 

 本画は裏書から、願主祐顕が証如(本願寺10世法主)から下付された事がわかる。また、真宗寺が越後国頸城郡宮口村にあったことがわかる。このことから、真宗寺が戦国の戦乱を避けるため及び一向宗を拡大する等の理由により、信濃国を離れていたことが伺える、貴重な資料である。

   制作年代 天文11年(1542)1月21日  紙本・彩色・切金  縦83cm 横34cm

 

 

 

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 有形文化財

  坂原家方便法身尊形

 

  指定  平成19年6月6日

  所在地 木島

  所有者 坂原家

 

 

 

 

 裏書に文明6年の銘記があり、市内の方便法身図としては最古である。蓮如(8世法主)の名前と花押がある。本図は、着衣の常葉や蓮弁の筋に切金を使用しており、方便図としても貴重である。坂原家という在家に伝存されてきたことは、飯山地域での一向宗の普及活動等を知るうえでも貴重な史料である。

  制作年代 文明6年(1474)7月26日 紙本・彩色・切金  縦35cm 横16cm

 

 

 

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 有形文化財

  五束宝篋印塔

 

  指定  平成19年6月6日

  所在地 五束

  所有者

 

 

 

 

 本塔は原位置からは移動している。基礎部に明徳4年(1393)8月と銘記されており、市内最古の石造物である。

  高さ89.8cm 幅46cm 厚46cm

  制作年代 明徳4年(1393)8月

 

 

 

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 有形文化財

  大倉崎館跡出土瓦質風炉

 

  指定  平成19年11月20日

  所在地 飯山市ふるさと館

  所有者 飯山市ふるさと館

 

 

 

 

 千曲川河畔に築かれた館跡で、明徳3年(1392)の「高梨朝高及一族以下給人所領注文」を根拠に、高梨氏の居館跡と推定されている。

 遺物から14世紀から15世紀前半の居館と判断されている。

 使用すること自体が権威を表すような器具であること、県内でもほぼ完形で出土した唯一の瓦質風炉であること、大倉崎館跡から出土したことから、市の中世の歴史を明らかにするうえで欠かせない資料である。

 

 

 

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 有形文化財

  常盤神社の木造狛犬

 

  指定  平成20年11月25日

  所在地 常盤

  所有者 大倉崎神社

 

 

 

 

 本像は、前肢を踏ん張って開口して顔を上げている。材質は桐といわれているが不明であり、尾部分は別材で作成し臀部先に差し込んである素朴な造りである。頭部は巻紙を刻むが素朴な彫りであり、専門の彫刻師でなく、この地域の信奉者が刻み奉納した物であろう。本像の現況は、阿形は耳先が欠損するが、阿形・吽形ともに歯列に胡粉彩、退部には胡粉下地に黒漆が施してある。陰刻銘の「文明九年酉年」(1477)は造立年を示すものと考えられる。この狛犬は大倉崎神社の創建より古いことは確かであるが、狛犬についての記録がないので、由来についてはわからない。

 室町時代中期の狛犬が現存することは、大倉崎館との関係、大倉崎の歴史等飯山市域の中世の歴史を知る上で貴重な文化財である。

   一木造・彩色  阿形57cm 吽形53cm

 

 

 

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 有形文化財

  恵端蔵書「夾山鈔」

 

  指定  平成20年11月25日

  所在地 上倉

  所有者 正受庵

 

 

 

 

 本書は厳しい修行の間に何度も読み込まれていたことが欄外の注釈などから伺うことができる。

 恵端禅師の修行の一端が分かるほか、恵端禅師が飯山の正受庵で修行をしていたという証であり、飯山市指定文化財として充分に値する。

  袋綴じ・版式冊子本

  寸法 縦27.2cm 横20cm

  制作年代 承応3年

 

 

 

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 有形文化財

  大輪院の木造天部立像

 

  指定:平成20年11月25日

  所在地 愛宕町

  所有者 大輪院

  

 

 

 本像は四天王のうち増長天(南)と考えられる。甲冑を付け、一面二手の武人像である。四天王は鬼座であるが、本像は岩座である。口を開き、目を大きく開けた忿怒相である。造立年代は、おとなしい彫りでやや力強さに欠けるなどの点から室町時代後半と見るのが妥当である。

 本像から大輪院の歴史、歴代城主の祈願所であったことを伺わせる貴重な作例である。

  檜材・一木造・彩色

 

 

 

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 有形文化財

  光明寺の銅造阿弥陀如来立像

 

  指定  平成21年4月4日

  所在地 照里

  所有者 光明寺

 

 

 

 

 善光寺式の阿弥陀如来立像で、左手は刀印を結び、右手は施無畏印である。伝承では、太田地区北条の観音堂に祀られる観音・勢至菩薩と一体となるもので、何らかの事情により別々に祀られるようになったと伝えられる。

  刀印…刀の形をまねた悪いものを追い払う印

  施無畏印…手を上げて掌をまえに向けた印相。漢字のとおり「恐れなくて良い」と相手を励ます印

  鋳銅製、前後合わせ型、鍍金  像高40.8cm 台座高34cm

  制作年代 鎌倉時代後期

 

 

 

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 天然記念物

  顔戸のエドヒガン

 

  指定  平成25年12月20日

  所在地 寿

  所有者 個人

 

 

 

 

 エドヒガンは、バラ科、サクラ属で桜の野生種の一つ。彼岸ごろに花を咲かせることからこの名前がついた。ソメイヨシノより早く花が付き始める。花が薄紅色から白で花弁は5枚で一重。萼の付け根が丸く膨らんでいる。葉は楕円形で長辺が5~10cm。サクラの中では非常に長寿の種であることが知られている。

 本エドヒガンは、顔戸の腹薬清水から150mほど上がった道路沿いに位置する。 樹木は、1本の木が途中から2本に枝分かれしている。市内のエドヒガンではもっとも大きく、豪雪地でかかる巨樹は珍しい。

  計測当時 樹高25m 胸高周囲 500cm

 

 

 

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 有形文化財

  三井家和算資料

 

  指定  平成25年12月20日

  所在地 静間

  所有者 三井家

 

 

 

 

 三井斧吉は、弘化元年(1844)に13歳で越後直江津の小林百哺に入門した。

 小林百哺(1804-1887)は、測量学・天文学(暦法・陰陽)を得意とし、今町(直江津)に牙疇堂という塾を開いた。門弟は3千人から5千人いたと言われている。

 斧吉は、弘化3年に早くも百哺から感状を授与された。その後、弘化4年、嘉永元年にも授与されている。このことから、多くの門人の中でも特に秀でていたことがうかがえる。

 嘉永3年には規矩元法目録が、嘉永6年には天文推歩・測量の免許、安部家入門免許が与えられた。

 三井家の和算資料の多くは三井斧吉と直江津の大和算家小林百哺との関係を示すもので、長野県内にこれだけまとまっている百哺関係の資料はなく、未公開の資料である。また、当市に優秀な和算家がいたことを示す貴重な資料である。

 

 

 

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 有形文化財

  滝澤家和算資料

 

  指定  平成25年12月20日

  所在地 常盤

  所有者 滝澤家

 

 

 

 

 算額は、滝澤高蔵が天保11年7月に柳新田の諏訪社に奉納したものである。掲げた問題は二題で、水色・赤・白・緑で図形が描かれており、色彩を含め保存状態は良好である。

 巻子5巻は、天保12年に大硲次郎が滝澤高蔵に与えたものである。

 算額は飯山市での発見例は少なく、文化財に指定されているものは下木島の取出神社の2面に次ぐものである。 巻子は5本全部がそろっている大変貴重な資料であり、このような資料はこれまで発見されていない。和算系統を知るうえで大変貴重な資料である。

  ケヤキ材 紙材  算額(縦32cm 横61cm)

 

 

 

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 有形文化財

  釜淵遺跡祭祀遺物

 

  指定  平成30年3月19日

  所在地 飯山市ふるさと館

  所有者 飯山市教育委員会

 

 

 

 

 飯山市大字寿字江下に所在する釜渕遺跡6号土坑から出土した呪符木簡、漆椀、すりこ木、鳥形木製品の4点からなる。

 呪符木簡は「急々如律令」と記され、永仁四年(1296)の墨書銘もある。鳥形木製品は、薄い二枚の木片を差し込み、頭部や嘴、羽を削り出す。鳥や神や神霊の使いとする鳥霊信仰に基づくと考えられる。漆椀及びすりこ木は杵うや臼と同様に陰陽思想による女性・男性の象徴として見立て、井戸などにおける満水祈願など水に関わる祈願と考えられる。

 これら四点の置かれた状況から、雨乞いなどの水に関わる宗教的行事が行われたと解釈できる。永仁四年という紀念銘のある呪符木簡や鳥形木製品、すりこ木、漆椀などがセットとなって発見されたことは長野県内においては類例がなく、全国的にも稀有な事例だと思われる。中世村落における人々の信仰、特に水に関わる祭祀行為の一端が推定される貴重な資料である。

  呪符木簡  長さ14.8cm 幅2.5cm 厚さ1mm

  鳥形木製品 体長9.7cm 翼長12.3cm 厚さ2mm

  すりこ木  現存長11.2cm

  漆椀    口径14.1cm 器高5.4cm 底径7.8cm(推定)

 

 

 

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 史跡

  馬場古墳群

 

  指定  平成30年12月15日

  所在地 照岡

  所有者 個人

 

 

 

 

 本古墳は、JR桑名川駅の南約200mの鉄道の軌道に接しており、狭長な桑名川の平坦地を望む高台の山林中に所在する。大正10年の飯山鉄道敷設において付近高台の土砂を削土したところ、直刀二口、勾玉類、金環、銀環などが出土している。したがって、周辺には二基以外にも古墳が存在していたと推定される。

 二基の古墳は山麓の尾根を利用した円墳で、裾部は自然地形との境が明瞭でない。むしろ自然地形を利用して造成したと考えられる。1号墳はややいびつな楕円形を呈している。2号墳は、頂部に石祠がまつられているためか平坦な面を有している。いずれも遺物の出土は知られていない。

 本古墳群は長野県における最北の古墳である。信越国境の通称市川谷と呼ばれている峡谷地帯において古墳が造営されたことは、当地方の古代史を考えるうえで重要な古墳である。

 

 

 

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 史跡

  山口城跡

 

  指定  平成31年3月1日

  所在地 旭

  所有者 山口区

 

 

 

 

 

 飯山地方では最大規模の山城跡である。越後の春日山城と飯山城とを結ぶ交通路に位置していることから、軍事上重要な山城であったとみることができる。飯山城の背後を固め、越後口を押えるのに適した位置にある。複数の郭(曲輪)、7条あまりの堀切、本郭に回らされた土塁、散見される石塁、桝形様遺構などに山城の特色を色濃く残している。

 本郭には城主・岩井備中守信能(一説に1559年生まれ)を祀る石祠が建てられており、毎年7月には山口区民によって「お城祭り」がおこなわれている。天正10年(1582)に武田氏と織田氏があいついで滅びると、飯山地方は上杉景勝の支配域となった。それ以後、岩井信能が飯山城の警衛を任されるようになり、山口城を支城として両城の整備等に当たったと推測される。そうした縁から後世、信能を祀ることになったのであろう。

 山口城(本城)の東北麓には郭・堀切・土塁の遺構をもつ小城(古城)があり、さらにその南方には御屋敷や馬場の地名が伝承されている。なお、御屋敷の近くで戦国時代の井戸跡や遺物が出土していることから、この一帯は根小屋(小城下町)であったとも推測される。

 

更新日 2020年03月26日